「タイムリープの日」

歯車と時計

気が付いたら昨日にいた。

 

そうか今日はタイムリープの日か。

なんてことを、ふと思い出した。

 

十年前から始まった一年に一度の自然現象である。

とはいえ、自分がタイムリープしたのはこれが初めてだ。

人から話は聞いていたが、こんなにもあっけないものなのか。

本当に、気が付いたら、という言葉がしっくりとくる。

 

パソコンとにらめっこをしてたところであった。

突然、あれ、昨日もこの作業をやったなと思い起こしたのである。

似たようなルーチンワークをしていたため、発覚が遅れたのだと思う。

移動した時刻が変わっていない上、昨日と今日は天気も一緒だった。

これも、分かるのが遅れた理由だろう。

 

………。

そうか。タイムリープか。

 

これからプレゼンテーションがある。

その資料を準備して、セッティングを上司と確認して。

午後には、会議にも出なくてはいけない。

 

ああ、そういえば、先方との食事の件はどうなった?

あれは昨日、すなわち今日に予約したものだったろうか。

 

まあ、確認してみるか。

 

タイムリープは世界中に認知されており、少々の支障には目を瞑る慣習がある。

ただ、誰がタイムリープをしたのか他の人に分からないために、疑われたり、心証が害されたりすることも稀にあるらしい。

そんな時は、誰も知りえない明日のことを話してやればいい。

 

さて、何がいいか今のうちに考えておこうか。

昨今の科学技術で予測できるものは、もちろん無駄である。

タイムリープをしたものが、賭け事や宝くじの結果を話すことは違法となっているため、これもアウトだ。

 

新聞やニュースで報道されたことを話すことは法律的には平気である。

しかし、人道的にタブーとなっている。

 

けれど、貧相な頭で考えられるのはこの程度なのである。

こうなっては、明日誰々が階段で転んだよとか、誰々は食堂でカレーうどんを食べていたよくらいしかないではないか。

 

しかしこれも、その当人にばれてしまえば、注意深くなったり、食べたいものを変更して、その事実が起こらないなんてこともありうる。

難しいところだ。

 

数十年前、まだ重力制御装置すらなかった時代に、タイムリープやタイムマシンが羨望されていた時代があるらしい。

時代を移動できることに価値を感じていたのだそうだ。

 

今となっては、そんな意見は少数派である。

誰が過ぎた一日をもう一度やってみようと思うだろうか。

一度目の人生を大きく変えることはできない。

そんなことは、すでに判り切っている。

 

人生の転機で違う選択をしたからって、その人の人生が変わるわけないのは、瞭然たる事実なのだ。

そこから数日間、もしくは数年間、確かに出来事は変わるかもしれない。

 

しかし、誤差は徐々に小さくなり、十年もたてば、元の人生と同じようなことをしている。

そんな人生を誰が繰り返したいと思うだろうか。

 

ああ、忘れていた。

プレゼンテーションの前に、事務のほうで部屋の使用許可と鍵を貰わなくてはいけなかった。

昨日はこれを失念していたため、開始時刻が大幅にずれてしまっていたのだ。

あと数分でこの仕事を切り上げなくてはいけない。

 

ああ、もう。

やることが山積みである。

昨日せっかく片付けたのに何故もう一度始末しなくてはいけないのだ。

 

タイムリープなんて、もううんざりである。

世界に誇る科学技術サマでなんとかできる日が早く来ないものか。

この物語はフィクションです。 実在の人物、地名、団体などとは関係がありません。

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